−びぃの部屋−<びぃのプチギャラリー>

 Franco Corelli  フランコ・コレッリ
 
  
フランコ・コレッリ(1921−2003)は、20世紀後半を代表するイタリア人テノールの一人です。

2004年と2005年、マエストロに捧げるメモリアル・コンサートが
熱狂的崇拝者であるオペラ研究家のプロデュースにより東京で開かれました。

2004年11月22日                          2005年10月1日
びぃは、ファン仲間の なつ さん(リンク集にHP なつのイタリア文化周遊 を紹介)の推薦で
2005年第2回コンサートのプログラム(右上)に拙文を載せていただきました。


                            
HP掲載にあたり加筆修正、写真を加えて再構成しました。
              

             フランコ・コレッリ、歌うことは生きること


 「人は子どもに向かって成熟する」という言い方があるそうだ。すると私は幸運にも、偶然の出会いに恵まれて、子どもの頃の思いをたどりなおす機会を与えられている。

                            

 私は幼い頃お絵かきばかりしていた。小学校では集団になじめず同級生たちを眺めていることが多かった。6年のとき、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』を読み、美少年に心奪われる老作家に感情移入して「私は美を讃えるために生まれてきたんだ」と、ひとつ自分がわかったように思った。


 1971年、中学2年の秋の夕、運命の出会いはテレビからいきなり飛び込んできた。
                
               <フランコ・コレルリ初来日リサイタル>

 
部活から帰り茶の間に入ったとたん、その横顔、その容姿、立ちふるまい、まさに私の
<理想の男性美>がそこにあった。ファザコン娘には、三十いくつの年の差もかえって好ましく、兄が愛読していた『音楽の友』『レコード芸術』から写真を切り抜いてはクリアケースにおさめ、いつも持ち歩いた。グループサウンズの人気アイドルに入れあげる友人たちもあきれていたようだ。

 当時の私は、家や学校で成績の良い兄のことばかり話題にされるのでかなり鬱屈していた。学校では<コレルリさん>の写真をよりどころにし、帰宅すれば自室にこもり数少ないレコードに何度も針を落とした。すると次第に、輝かしい姿と歌声の奥にある、彼の繊細な魂、深い孤独が聴こえてきた。テノールにしては明るすぎない声質で豊かに響く中音域や、夜の闇を薄く切り進む一条の光のような、高音部の果てしないディミヌエンドに憂いを重ね、最高音での鮮烈な立ち上がりと熱情のほとばしりに、抑圧された自分のこころを解放していたのだろう。

   ( 詳しくは、びぃのもう一つのサイト<めぽっく21>→<こころのリハビリ>自分のことを話しましょう その2 <居場所がない> をご覧ください )


 1973年、高校1年の9月、再来日を知り、親にコンサートに行きたいと頼んでみた。
チケットは1枚6,000円。当然父にはダメだと言われて、次の手に出た。中間テストを休めば、教育ママの母が折れるだろうと踏んだ。案の定、一日休んだだけで、「お父さん、私が付き添うから行かせてやりましょう」

 11月、母に連れられ、NHKホールで <レナータ・テバルディとのジョイントコンサート>

 
舞台の左袖から、長い脚が一振り蹴り出された瞬間、もう ぼおっとしてしまって、コンサートの内容はあまりよく覚えていない。同郷の名ソプラノを常に立て、うやうやしくエスコートする姿が印象に残った。

        数日後、一人で銀座の楽器店で行われたサイン会へ

 サインがもらえるのは、来日記念レコードの購入者だけ。2人がすわる横長のテーブルには、ファンが次から次へと押し寄せ、係員は「一人一枚にしてください!」と繰り返し叫んでいた。でも、そのとおりになんて誰がする?色紙はまずテバルディさんがサインし次にコレルリさんに。一瞬迷ったが、今しかない!後ろから押されながらも、持参したカルメンのレコード解説書を差し出した。マエストロは、ドン・ホセ役の写真に束の間見入ってからおもむろにサインし、それから私を真っすぐに見据えて固い握手をしてくださった。

         
 
           
最近HP用の撮影をするのに久しぶりに眺めていたら、初めて気がついた。左余白にサインをするには、写真を見たあと90度持ちかえなければできない。大混雑の中で、このように細やかな気遣いをしてくださっていたとは。あの場で私が感じたよりはるかに心優しい、尊大なところのない紳士だったのだ。30年以上気づけずにいた・・・。

 
                         「コレッリ!」
 サイン会が終わってもごった返す店内で、テバルディさんがそう一声高く呼ぶのを耳にして、実際の発音は、当時の日本語表記<コレルリ>と違うことを知った。



                            

 1975年、高校3年の春、進路を決めあぐねていた私は、大好きな『トロヴァトーレ』(トーマス・シッパーズ盤)を自室で聴いていた。
それまではコレッリさんの十八番、マンリーコの歌声に全曲通して聴き惚れていたのだが、その日はなぜか、第2幕、アンヴィル・コーラスに続くジュリエッタ・シミオナートさんの♪炎は燃えて♪ に惹きつけられ・・・   突然、自分が部屋もろとも燃え上がるかのような錯覚に陥った。興奮さめやらぬまま、オペラっていいな、大学ではイタリア語を学ぼう、そう決めた。


                             


            それからはるかに時は経ち、1998年、四十代最初の元旦。

 
大晦日から、「コレッリさんに導かれて、二十代はイタリアといろいろ縁があったけど、三十代は子育てと親の世話でイタリアがずいぶん遠くになっちゃったなぁ」と嘆きつつ、実家で寝ぼけ眼をこすりながら広げた朝刊には、オペラ特集、酒井章さんの『イタリア派は歌を楽しむ』・・・「オペラに目覚めたのは、フランコ・コレッリの歌うアリア集」

                      えっ、ホント!!?

 新聞記事から104番で電話番号は簡単にわかり、思い切って電話した。酒井さんは突然のぶしつけな相手に、
 「批評家には叩かれ続けましたが、昔も今も世界中のテナーが憧れるテナーです」

 「今年、生まれ故郷のアンコーナで彼の名前を冠した国際声楽コンクールが始まりま
  す」
 「ホームページもありますよ」
と矢継ぎ早。ファンクラブの楽しさを知った。

 
コレッリ・ホームページを開いていたのは、アンコーナ市『オペラ友の会』芸術顧問で、コンクールの審査員でもあったアレッサンドロ・ショッケッティさん。久しぶりにイタリア語の辞書を引き、自己紹介とコンクール開催のお祝いをしたためてメールを送った。

 何度かやりとりしているうちに、「このコンクールの記事を日本で目にしたことがありますか?」と訊かれた。
 「日本でも宣伝してもらいたいようですよ」と酒井さんに伝えると、「わかりました、任せてください!」ときっぱり。 翌日、
 「日本語のチラシを用意すれば、コンサートのプログラムに無料ではさみこんでもいい
  という興行主がいるのですが・・・」


                      「私が作ります!」

 でも、納めるまではわずか一週間。すぐにショッケッティさんにチラシを作ってもよいかメールで打診。即OK。日本のコンクールのチラシを参考に、HP上の募集要項から必要事項を抜粋、ショッケッティさんに選択項目など検討してもらってから和訳、酒井さんにも英訳からのチェックを依頼。

 

↑後日、
アンコーナのコンクール事務局から
送られてきた、1998年の
第1回フランコ・コレッリ国際声楽コンコルソ
募集要項
(表紙)

何度もケースを替えながら持ち歩いていた古びた写真から、上半身横向きのものを選び、まだらに色あせたタキシードをお絵かきソフトで修正。まさにインターネット、
パソコン さまさま

実際のチラシはB5サイズ
 アンコーナの事務局から九段下のイタリア文化会館に募集要項をまとめて送ってあるというので、国内の資料請求先は無理を言って文化会館にお願いした。あとで友人から聞いた話では、それまで一地方都市のイベントに会館が名を貸した例はなかったらしい。担当者の毎年の特段のご配慮にあらためて感謝したい。

 納入日には、うちを出る直前までチラシに訂正の貼り込みをした。小学3年だった娘だけでなく、友だちとそのお母さんまでありがたいことに手伝ってくれた。仕上がった分をつかんで葛飾から有楽町の国際フォーラムまでダッシュ、コンサートに何とか間に合って酒井さんに手渡せた。帰り際、ひと息ついて夕暮れの空を振り仰いだら、私はこの日のためにイタリア語を学んだんだ、そんな思いがこみ上げてきた。
  
 第1回大会の参加者は約180人(うちテナー70人)とコンクールは大成功。
実際に現地に赴いた酒井さんによると審査委員長のコレッリは、本選前から精力的に若手歌手を指導し、わざわざ席を立って助言する場面もあったそうだ。ソプラノの佐藤美枝子さんが入賞し、同年チャイコフスキー国際音楽コンクール声楽部門で優勝している。

               

 翌年第2回のチラシは、ショッケッティさん、酒井さんに早めに連絡を取り、余裕があったので前回印刷を頼んだ知人に、コンクール募集要項と同じ体裁、写真で版下から作ってもらった。
 東京芸術大学新奏楽堂では、開場前に外で待つお客さんたちに、「イタリアで開かれるコンクールですが、お知り合いの若手歌手に参加をおすすめください」と声かけしながら、酒井さんとチラシを配った。このとき観た卒業公演『こうもり』は、みなさん芸達者でノリがよく、オペレッタを十二分に楽しめた。中島康晴さんのアルフレードも聴けた。彼はこの年のコンクールに参加、惜しくも優勝は逸したがマエストロ・コレッリに絶賛されたという。
                            









1999年 第2回
フランコ・コレッリ国際声楽コンコルソ
募集要項




            実際はA4

 
 第3回の2000年は、実家で父の病後を看ている最中だった。どうにか刷り上ったチラシを見て愕然とした。パソコンでなくファックスで受け取ったゲラでは写真の縦横縮尺の違いを見落とし、コレッリ扮するカラフの顔が横広がりになってしまった。

 今でも痛恨のチラシだが、手元の一枚には
Franco Corelli Ancona 10-6-2000のサインが入っている。これは、ファン仲間のなつ さんが、カフェテリアで「マエストロ!日本でチラシを作った友人がいます」と本人を呼び止めてもらってきてくれたものだ。
 
2000年第3回
フランコ・コレッリ国際声楽コンコルソ
募集要項
 
  A4                       ↑                ↑
       HP掲載にあたり、写真は
見るにしのびないのでひかえました。
募集要項に載っていた
もとの写真


                            

 残念ながらコレッリ・コンコルソは3回で終わってしまったが、酒井さん、ショッケッティさんとの共同作業、チラシを仕上げ、配るまでにいただいたさまざまなご厚意、そしてなつさんの心配りは忘れられない。

 学生時代、イタリア文化会館館長の16歳のお嬢さんが、”L'amore del cristiano e' l'agire.”「キリスト者の愛とは、行動すること」と教えてくれた。
 
              真の芸術にも、人を行動へと駆り立てる力がある

 

                             


  イタリアでのコレッリ情報を和訳紹介している なつさんのHP ( なつのイタリア文化周遊 →フランコ・コレッリに捧ぐ)
から、2003年深秋、パルマの新聞 『Gazetta di Parma』が組んだ追悼特集より、アルトゥーロ・トスカニーニ財団ジャンニ・バラッタ監督の哀悼のことばを引用させていただく。

 「フランコ・コレッリと会うと、我々の話題は常に若い世代に関するものとなりました。つまりオペラの将来は、次世代のアーティスト育成の分野に長期的な責任がかかっているのですから。彼は若者たちに大きな関心を抱いていました。コレッリが教育者としても大いなる責任を持って、教えていたことを忘れてはなりません。アーティストとしての活動だけでなく、人格形成という面での音楽教育に関心を持ってトスカニーニ財団の活動と発展に従事していました」


 
酒井さんはこれまでも若手デビューに力を貸していたが、アンコーナのコンクールでコレッリと直接会ってからその思いを深くし、一周忌にあたる2004年から、この『フランコ・コレッリ メモリアル・コンサート』を毎年開催する決意をした。

 私はチラシを配る間に、海外のコンクールに参加するのに何から何まで自分で手配しなければならない日本の若者たちの苦労と、必ずしも若手育成に熱心ではない大歌劇団の実態を垣間見た。この国の芸術振興策のみすぼらしさを考え合わせると、酒井さん一人の頑張りでは若手研鑽の場はとても足りない。

 20年前、中部イタリアの人口5,000人の山村カステル・ディ・サングロで暮らす日本人女性から、「このまちでは、若い人たちが作品を展示するスペースとして広場を開放して、住民は自分たちの楽しみで気に入ったものを買い求めて、そうすることで地元の芸術家を育てている」という話を聞いた。

 コレッリは20歳を過ぎてからアンコーナの友人のすすめで歌を歌い始めた。

 もしかしたら、あなたのお住まいのまちにも<21世紀のコレッリ>が眠っているかもしれない。

   新しい声の発見を楽しみにしながら、若者たちが気軽に練習できるスペースや、

    ステージに立てる機会を、あなたのまちに、もっと作ってくださいませんか?



                            

                         最後に、

                   歌を志す若い方々へ


 完璧主義で自分の美意識を貫いたコレッリだが、心の奥底には他者とつながりたい、理解されたいという強い希求があった。だからこそ聴衆と批評家との間で絶えず揺れ動き(注1)、舞台で失敗することへの恐れ(注2)も相まって、全キャリアを通して舞台恐怖症と格闘した。それでも彼は神を信じ、オペラを愛し、理想を目指して、心を奮い立たせて舞台に上がった。


             歌うことは生きること、そして より良く 生きること


  
注1) コレッリはヴィヴラートのかかり過ぎる自分の声を嫌い、オペラデビューして10年近く経ってから、当代随一の清らかで安定した声と謳われた名テノール、ジャーコモ・ラウリ=ヴォルピ(1892-1979)について発声と歌唱法を根本から直している。ラウリ=ヴォルピは名文家でもあり、古今の名歌手をパート別に2人ずつ対比評論した快著 『Voci Parallele』(初版は1955年刊)の中で、コレッリを、「彼が(アイーダで)成功した理由には、長身で堂々たる舞台姿や、時にけばけばしいほど派手な衣装に凝ったこと、素晴らしい脚をしていて、今日の自堕落に激しく生きる若者たちに特にアピールしたことも見逃せない。とはいえ、(それらの要因は)この研究熱心で自分の問題に気づかずにはいられないアーティストの真価をいささかも損なうものではない」(1977年刊第3版より)と評している。
注2) マリーナ・ボアーニョ著 コレッリ評伝 『Un Uomo, Una Voce』(1990年刊)の巻頭で、評論家グスターヴォ・マルケーズィは、「このような恐れはピュアなアーティストの特質であり、コレッリは常に初学者の慎重さ、恐れ、誠実さを忘れずに舞台に上がった」と讃えている。

          

           2005年第2回 "フランコ・コレッリ"メモリアル・コンサートプログラム より

           
                            HP掲載にあたり、加筆修正し、写真を加えて再構成しました

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